◆聖歌隊賛美・・・ガリラヤの風かおる丘で
「ガリラヤの風かおる丘で 人々に話された 恵みのみ言葉を
私にも聞かせて下さい・・・」
◆聖書の御言葉
・旧約 箴言4:20~22
「わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。見失うことなく、心に納めて守れ。それらに到達する者にとって、それは命となり 全身を健康にする」
・創世記1:1,5,8
「初めに、神は天地を創造された。・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。・・・夕べがあり、朝があった。第二の日である。」
◇創世記に学ぶ
聖書の一番はじめ、創世記の冒頭、そこには神がこの全宇宙、天地万物、すべてのものをお造りになったことが書かれています。
神様は六日間かけてこの世界を創造され、そして七日目に創造の業を休まれたと書いてあります。
一日目-光と闇、二日目-大空と水、三日目-海と地と植物
四日目-昼と夜(太陽と月)、五日目-鳥と魚、
六日目-獣、家畜、そして人間。
神様はまず最初の三日間において、大きな大きなお皿、入れ物を用意されます。
光や闇、大空や水、海や陸地、 そして次にそこに入るもの、
太陽や月、光や闇が存在しなかったから太陽や月は存在できません。
鳥と魚、空や海がなかったら鳥や魚は生きられません。
動物、陸地がなかったら動物は生きられません。
そのようにして本当に順序よく、すべてのものをお造りになりました。
そして、最後に人間です。最後に、人間。
この箇所は、聖書の中でも、大変感動的な場面の一つです。
◇すべてを備えられた神
神様はわたしたち人間が創造される前に、この天地万物を心を込めてお造りになられたのです。
そしてその大切な世界を、ご自分にかたどって作られた人間の手にゆだねられたのです。
別の言い方をすれば、この全世界を人間にプレゼントしてくださったのです。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。」(創世記1:29)
最初の人アダムが、神のかたちにかたちづくられ、神様の息吹を吹き込まれて、はじめて目を覚ました時のことを考えてみて下さい。 その瞬間を見守っていた神様はどんなにワクワクされたことでしょうか。
アダムが目を開けた時、そこには神がおられました。
周囲を見渡すと、神様からの贈り物で一杯でした。
右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、全部神様からの贈り物、 「恵み」に満ちあふれていたのです。
彼が目にするすべてのもの、木も草も、鳥も魚も、どれを見ても、すべては神様が備えて下さったもの、すべては彼が目を覚ます前に神様が働いて造られたものであったということです。
これが人間の歩みの始まりでした。
まず神が働かれ、神が備えられ、その中で人間が目を覚まし、神と共に歩みを始める。
これが人間本来の生活のリズム、そのように学びとることができます。
◇夕べがあり、朝があった
わたしたちは朝起きた時から、何か頑張らないといけない、自分の力だけで一日に立ち向かい、終わった時には自分は良く働いたと感じながら生きる。そして夜は疲れ果てて休むために眠る。
終わりがないような、そんな毎日を繰り返す。
このようなどこか頑張った、あまり恵みを感じない生活、むしろ恵みどころか不満や疲れがたまっていくような生活、恵みとは正反対の生活になってしまいがちではないでしょうか。
普通私たちが一日の始まりと考えているのは、大体朝です。
しかしこの創世記を見ると、興味深いことにこう言っているのです。
「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」(創世記1:5)
「夕べがあり、朝があった。第二の日である。」(創世記1:8)
「夕べがあり、朝があった・・・」
「朝があり、夕べがあった」ではなく、「夕べがあり、朝があった」
ここに、人間本来の生活リズム、「恵みの中に生きる者」のリズムを見るのです。
少し想像してみましょう。
アダムが目を開けると神がおられたように、 目を覚ますと、目には見えませんが
わたしたちが一呼吸「主よ」と神を意識するだけで、神の存在をひしひしと感じることができます。
起きてみると、(普段わたしたちは忘れていますが) わたしたちが起きる前から、世界は動き続け、草木は成長し、天候も変わり、わたしたちの知らないありとあらゆるところで、神様が働き続けておられることに気づくのです。
それは非常に個人的な意味でもそうなのです。
わたしたちが十分に生きるために、神様がどれだけ働いていてくださるか。
想像してそれをあげたらキリがありません。
わたしたちが何もしなかった夜の間に神様は働かれ、わたしたちのためにすべてを整えて、新しい一日を用意していて下さる、そのことに気づくのです。
当たり前にあると思っていることがらが実は当たり前ではない。
今日一日は、すべてが神様からの贈り物、恵み。
その意識に目覚めるとき、わたしたちの一日はまったく違ったものとなるでしょう。
感謝を忘れた日々から、感謝にあふれた毎日となるのです。
毎日が恵み、毎日が神の祝福の中で、毎日が神と共に、喜びをもってスタートすることができるようになるのです。
「夕べがあり、朝があった」
目覚めと共に神に感謝をささげる生活。
神と共に歩む生活。
神にゆだねて安心して眠りにつく生活。
これこそは「聖書的健康生活」 人間本来の健康的な毎日の過ごし方ではないでしょうか。
◇見つめなおす機会
今、全世界、そしてこの日本でも起こっている多くの出来事を通して、 現代に生きるわたしたちひとりひとりに、もう一度、自分自身の歩みを 見つめ直す機会が与えられているような気がしてなりません。
携帯電話、インターネット、食料、飲料水、薬、
着るもの、住むところ、ガソリン、灯油・・・
すべては、あることが当たり前のような大前提の中に生きていた、しかしなくなってはじめて、それらが恵みであったことに気づく。感謝を忘れていたことに気づく。
そのとき、自然とわたしたちの心は、人間本来のあるべき生き方、あるべき本来の歩みへと、心が向けられるのです。
そして、「生きる」ということを見つめ直すと同時に、「死ぬ」ということにも心が向けられるのです。
今、震災を受けて、現地だけではなく各地で、震災への備えをしようと
多くの買いだめ、備蓄用品が売れています。
カップラーメン、お米、水、手回しで充電できる懐中電灯、
カセットコンロ、乾電池などが品切れになるような事態が起きていますが
それらはすべて、人生を少しでも長く生きるための備えです。
それも大切ですが、もっと重要な備えを、しておかなくてはならない。
それは死に対する備えです。
震災にあって亡くなられた方々、さぞかし無念であったと思いますが、その中にも2種類の人がいらっしゃったと思います。
死に対する備えができていた人、できていなかった人。
今、わたしたちが生きているこの瞬間というものは本当に恵みであり、大切な一日であることがわかります。
聖書にこう記されています。
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)
どうぞ、おひとりおひとりが、 人間本来の「聖書的健康生活」に立ち返り
わたしたちの生も死も握っておられる、神と共に歩む生活の中で、救いを確かなものとし、
死をおそれない、心安らかに暮らす毎日へと 導かれることを祈ってやみません。
「夕べがあり、(そしてすばらしい恵みの)朝があった」
神の御手の中で、すばらしい祝福と恵みの中を歩まれますように。
◆聖歌隊賛美・・・御手の中で
「御手の中で すべては変わる賛美に
我が行く道を 導きたまえ
あなたの御手の中で
御手の中で すべては変わる感謝に
我が行く道に あらわしたまえ
あなたの御手の業を 」