2011年4月21日木曜日

4月17日 予測できない未来に備えて



◆聖書の御言葉
・マタイによる福音書24:4(新約聖書p47)
  「人に惑わされないように気をつけなさい。」
 
・ペトロの手紙一1:24-25(新約聖書p429)
  「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
 
・テモテへの手紙二3:15(新約聖書p394)
  「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」
 
・マタイによる福音書27:46(新約聖書p58)
  「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
 

◇産みの苦しみのはじまり 

今回のバイブルサンデーのテーマは「予測できない未来に備えて」です。

震災を通してさまざまな波紋が世界中に広がり
先が読みにくい時代になってきました。

震災そのものは日本で起こりましたが
輸入・輸出など各国が国際関係によって成り立っていますから
日本だけの問題ではなく、世界がその影響を受けて混乱しているようです。

混乱の時代は、人々の心が非常に複雑な状態にあるので
読みにくいと言えます。

今はどんな時代なのでしょうか?
 
聖書には「産みの苦しみのはじまり」(マタイ24:7)と呼ばれる時期が
出てきますが、その時代の特徴の一つに「方々に・・・地震が起こる」(マタイ24:7)
というものがあります。
 
日本に限らず世界的に活発に地震が起こっています。
ニュージーランド、四川、スマトラ沖・・・
多くの巨大地震が記憶によみがえってきます。

いつの時代にも地震は起こります。

しかし、この10~20年間に世界で起こっている大規模な地震は
本来なら何百年もしくは何千年という期間の中で起こるはずの
地震と言われています。

それがわずか10年~20年の間に世界各地で集中的に起こって
いるという事実。

こんな時代は聖書の時代(イエス・キリストの時代)から見ても
まれに見る時代と言えるでしょう。

その意味で「方々に・・・地震が起こる」(マタイ24:7)との記述に
もっともあてはまる時代と言えるかもしれません。
 
わたしたちはこのような時代に、何を心のよりどころとし
何を第一に備えていったら良いのでしょうか。
 
◇第一の備え-時代への対応 

第一の備えとして「時代への対応」を学びましょう。

 「産みの苦しみのはじまり」について
イエスが真っ先に語っている事柄があります。

それは
「人に惑わされないように気をつけなさい」(マタイ24:4)
というものです。

人の言葉、誤った情報、惑わし、うわさに注意しなさい
と警告しているのです。

 「情報」というものに気をつけなさい。
このことが真っ先に語られています。

現代は情報の時代です。
たくさんの情報があふれています。

わたしたちは自分の家にいながら
世界中の情報を瞬時に手に入れることができます。

しかし、すべての情報が正しいとは限りません。
だからこそ情報というものには細心の注意を
払わなければならないのです。

まして、命にかかわることや、わたしたちの心にまで
影響をおよぼす、永遠の運命を左右するような情報には
気をつけなければならないのです。
 
正しい情報と、誤った情報の対照的な例をあげたいと思います。

*正しい例。
  今回の地震、南三陸町に遠藤未希さんという
  24歳の女性がいらっしゃいました。
  未希さんは防災対策庁舎のマイクから、町民に向かって最後まで
 「大津波が来ます。いそいで高台に避難してください」と命がけで
  叫び続けられたそうです。そのおかげで多くの人が助かりました。
  しかし未希さんは今もなお行方不明とのことです。
  住民の人たちは「あれは天使の声だった」と言っているそうです。
  一人の人が命がけで発した正しい情報が多くの人を救った例です。
     
*反対の例。
 10年たった今でも記憶に新しいニューヨークのテロ事件。
  あの時、一機目の旅客機がワールドトレードセンターに突っ込んだ時
 もう一つのタワーの人々はあわてて下の階におりていきました。
 しかし場内アナウンスが流れたのです。
「皆さん、このタワーは安全ですから引き返して下さい。」
 そのアナウンスを信じて戻った人が、その後、どのような運命を
 たどったのかは皆さんがご承知の通りです。
 アナウンスをした方に悪意はなかったと思いますが、結果として
 誤った情報が多くの人を死に至らしめてしまった例です。
 
この2つの例は、情報というものの大切さ、こわさを教えてくれます。
 
今回の震災でも、風評被害やメディアの表現の問題などで
人々が振り回されることが何度かあったようです。

さまざまな人間の心理や思惑が背後にある情報に振り回されないよう
注意すること、そして惑わされて本当に大切な情報を見失わないように
とイエスは警告しているのです。
 
その意味で、これからの時代への対応として、ますます「情報」という
ものに注意する、ということがあげられます。
 
◇第二の備え-確固たる基準 

第二の備えは「確固たる基準」をもつことです。

わたしたちがこのような混乱の時代にあって、誤った情報に流されない
ためには、それを見極める正確なものさしが必要になってきます。
 
果たしてこの世にそんなものがあるのでしょうか。
そんな絶対的なものさしはあるのでしょうか。
 
人間の言葉は変わります。
選挙の公約のようにコロコロと変わっては運命を預けられません。
また「そこまでは想定できていなかった」ということでは、安心できません。
人間の言葉、約束には限界があります。
 
しかし神の言葉は変わらないはずです。
「草は枯れ、花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」(ペトロの手紙一1:24-25)
神が本当の神であるなら、その約束は破られることがないはずです。
 
そういう観点から聖書に注目してみましょう。
 
聖書という書物。
これはどうでしょうか。

わたしたちの人生の指針、基準、ものさしになり得るでしょうか。

聖書は1500年ぐらいの期間に
約40人のさまざまな身分の人々が書いた書物です。

 間違いなく人間が書いたものですが、
神の霊感を受けて書かれた書物
すなわち神の言葉だと信じられてきました。
 
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ
人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅱテモテ3:16)
 
非常にユニークなのは、聖書は信じる人以外からも
信頼されてきた書物だということです。

歴史家や考古学者、さまざまなジャンルの人々から
それぞれの分野を研究していくうえで信頼できる資料として
幅広く認められています。
 
このことは、信仰の有無に関係なく
聖書がその記録の正確さという点で信頼されているということ
また時代を超えて愛される、何か普遍的な要素を含んでいる
ということを物語っています。

信じる人々からは神の言葉として信じられ
信じない人々からも信頼できる資料とされているユニークな書です。

またいつの時代にも、
あらゆる年齢層、あらゆる職種、そして多くの国で読まれ
受け入れられてきました。

さまざまな時代に耐えて
時代を超えて変わらず多くの人々の基準であり続けた
という事実があります。
 
その意味で聖書は、
今世の中に存在する無数の情報の中でも
とても信頼できる情報を提供し

これからの時代にも確固たる基準を
人々に与え続けることができる書物だと言えるでしょう。
 
◇第三の備え-確かな救い

さらに聖書についてこういう言葉があります。

「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して
救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」(Ⅱテモテ3:15)
 
そこで第三の備えは「確かな救い」です。

老後の備えよりも大切な
わたしたちの永遠の運命にかかわる備え、死後の備えのことです。
 
いつ何が起こっても良いように
救いを確かなものとしておくことは
何よりも重要な事柄ではないでしょうか。
 
この不況の時代
わたしたちの関心は少しでも多くの収入を手にすること
景気がよくなれば、お金さえあればなんとかなる・・・

世の中全体の価値観が
知らず知らずそんな方向に向かっていたように思います。
 
本屋さんに行っても
お金の法則、引き寄せの法則、成功哲学、賢い節約術
そんなジャンルの本がところせましと並んでいます。
 
お金を稼ぐ人たちが
宗教顔負けのスピリチュアルな教えをとく姿が
あちらこちらで見受けられます。

もちろんそこで語られているすべてが
豊かさをお金に限定しているわけではありませんが
多くの場合、資本主義、お金を前提とした

不安定な土台の上に建てられた思想だということがよくわかります。
 
不況というのは、お金の価値が不当に高まる現象とも言われますが
いつのまにかお金の価値が不当に高まって
このような価値観が広まったのだと思います。
 
しかし聖書ははっきり言っています。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、
何の得があろうか。」(マタイ16:26)
 
死んだらお金をあの世に持っていくことはできません。

残された財産をどんなに「人にはやらない」と言っても
結局自分以外の人の手に渡ってしまいます。
 
お金は生きるために必要なものです。
しかしそれ以上に大切なものを忘れてはいけないのです。

聖書が示すなくてはならない唯一のもの。

それは主イエス・キリストによって人類にもたらされた「永遠の命」です。
 
これこそは
人間の永遠の運命を左右する
もっとも重要でもっとも不可欠な最大の備えだと聖書は教えています。
 
この永遠の命は
主イエス・キリストを唯一まことの神・救い主と信じて
その名を呼ぶことによって与えられると聖書は約束しています。
 
これこそは、聖書がわたしたちに与えてくれる
「救いに導く知恵」(Ⅱテモテ3:15)なのです。

 だから聖書は一貫して
イエス・キリストが神であり救い主であることにスポットをあてています。
 
◇イエスの十字架の死

最後に、イエスの十字架の死に注目したいと思います。

このことが、予測できない未来に備えて
もっとも大切な備えとなる確かな救い
永遠の命をいただくことにつながればと祈ります。
 
イエスは十字架の上で
七つの言葉を発したことが記録されていますが
今日はその四番目の言葉にだけ注目したいと思います。
 
朝の9時から午後3時まで
約6時間にわたってイエスは十字架の上で苦しみました。

最初の3時間は、人々が罵声を浴びせかける中
イエスは人々の赦しを祈りました。

しかし12時を過ぎると、真っ昼間だというのに全地が暗くなり
あたりは不気味な静けさに覆われます。
 
自然界と自然界を代表する太陽さえも
光を失ってしまったことが聖書に記録されています。

その真っ暗な闇が覆う中で
重い沈黙を破りイエスは天を仰いで叫びました。
 
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)
 
この叫びは、旧約聖書からの引用ですが
一見、救い主が叫ぶとは思えない

まさに滅びに飲み込まれそうになっている霊魂が叫ぶ
悲痛な叫び、絶望的な叫び、断末魔の叫びです。

なぜイエスが、なぜ救い主が
このように叫ばなければならなかったのでしょうか。





 
・・・この叫びは、本来わたしたちが叫ぶべきものでした。





 
わたしたちはみな罪を持っています。
誰でも人を憎んだことはあります。
嘘をついたり、悪口を言ったり、悪い想像をしたり・・・
罪の自覚は誰にもあります。
 
それは罪の原因(原罪)をもっているからである
と聖書は言っています。

そこからいっさいの悪い思いや行いが出てくるのです。
それがある限り、霊魂は天国に行くことはできません。
 
自分は間違いなく救われた、罪が赦された
その確信がないために、どこへ行くかわからない。

だから死は恐怖なのです。
 
罪をもったまま最期の時を迎えた人間は
間違いなくこの現実に直面し
絶望してこのように叫ぶのです。

「誰か助けて!」 
「神よ、なぜわたしを見捨てられたのですか」
 
しかしイエスは
わたしたちの一切の罪の重荷を背負い
わたしたちの身代わりとなって

わたしたちが体験するはずだった
絶望と滅びの恐怖を自ら味わって
死んでくださったのです。
 
わたしたちより先にその真実を知った
一人の弟子はこう記しています。
 
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(Ⅰヨハネ3:16)
 
十字架にかけられたイエス・キリストの姿。

これこそはどのような言葉にも勝る
わたしたちへの愛の証であり

わたしたちが直面すべき罪の問題、死の問題が
すでに解決されていることの証なのです。
 
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)

わたしたちが叫ぶはずだったこの叫びを
身代わりとなって叫ばれたお方は
あなたの人生も、未来も、永遠の運命も
すべてわたしが背負うと申し出ておられます。
 
「あなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負っていこう。
  わたしはあなたたちを造った。
  わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:4)
 
「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。」(エレミヤ31:3口語訳)                                                                   
神は愛なり 

2011年4月1日金曜日

ご案内☆4月のバイブル・サンデー


だんだん春らしくなってきました。
桜の開花も待ち遠しいですね。

4月のバイブル・サンデーは17日(第3日曜日)10:30~です。

バイブル・サンデーは、教会は初めてという方にも、
わかりやすく聖書のお話をしています。
どなたでも、お気軽にお出で下さい。
お待ちしております。

3月27日 聖日礼拝(進級式)

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 (ローマ10:13)

◇福井空襲の時に防空壕の中で家族と祈りつつ天に召された
  福井教会の初期の信者さんであるS姉妹の信仰の証。


◇新1年生のSちゃんの進級式。
 幼稚科クラスから小学生クラスに進級です。
 おめでとう!!