◆聖書の御言葉
・マルコによる福音書4:26-29(新約聖書p68)
「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』」
・マタイによる福音書13:37(新約聖書p26)
「イエスはお答えになった。『良い種を蒔く者は人の子』」
◆バイブル・メッセージ
◇序
小学校などに行くと、二宮金次郎(公人としての名は尊徳)の像を見かけます。
彼が遺した、金言と言われる数々の言葉の中に
「遠きをはかる者は富み 近くをはかる者は貧す」という言葉があります。
目先の欲ばかりにとらわれていると、本当の豊かさを失い
貧しくなってしまうという教訓を与えてくれます。
とかく忙しい日々に追われ
目先のことで一杯一杯になってしまいがちなわたしたち。
少し一息ついて、あかるい未来への備えとして種まきをしましょう。
◇種について
・マルコによる福音書4:26-29(新約聖書p68)
「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』」
イエスはこのたとえを通して、命あるものの成長は
人間の努力や能力の及ばないところにあることを教えています。
同じように神の国は、人間が努力して得られたり
能力がある人が到達できるようなものではなく
ただ神の恵みによって与えられるもの
であることを教えています。
種というものは不思議なものです。
見上げるほどの大きな木でも、種はおどろくほど小さいのです。
小さな小さな粒が、どうしてあれだけ大きな木になるのでしょうか。
そして種は、ただ成長するだけではなく
そのまかれた場所に劇的な変化をもたらします。
木も草も何もない場所に種をまいたとします。
するとそこは
緑あふれる場所となり、花が咲き、実がなり
その花や実をしたって、様々な昆虫や鳥や動物たちが集まる
命があふれる豊かな場所になります。
一つの種から、一本の木が成長し、周囲にも影響を及ぼし
一つのワールド、命あふれる世界ができあがってしまうのです。
種というものは、そんなはかりしれない
驚くべき力をもっているのです。
◇神の国について
イエスは、神の国もまた
同じようなプロセスで実現していくことを教えられました。
わたしたちの心に、種がまかれることによって
それが心の中で成長し、実を結びます。
愛、喜び、平和に満ちあふれた心の状態
神の国が自分の中に実現し始めます。
その結果、自然と波紋のように
心のうちに起こった変化が周囲の人にも広がっていくのです。
神の国は、死んでから実現するのではありません。
すでにこの世にいながら
自分の中に神の国を見ることができるのです。
やがて肉体の死を迎えますが、恐れることはありません。
この世にあって、神の国を生きている人にとっては
死は単なる通過点にしか過ぎないからです。
むしろ、死はこれまでの人生の実りを収穫する時
すばらしい瞬間となるのです。
なんと明るい未来が待っていることでしょうか。
◇神の種と別の種
朝顔の種を蒔いたら、その種は必ず朝顔になります。
ひまわりの種を蒔いたら、その種は必ずひまわりになります。
朝顔の種を蒔いたのに、ひまわりの花が咲くことは決してありません。
では、わたしたちの心に神の種が蒔かれたら
その心はどうなるでしょうか。
神と同じ心になるはずです。
心に宿した種は、自然界と同様
その遺伝子に従って、自然に成長していくのです。
そして、神は永遠の命をもっておられますから
その人も永遠の命に生かされます。
では、神以外の種が蒔かれると?
やはり人は、その蒔かれた種のようになるはずです。
おそろしい犯罪を犯した人に取り調べをすると
自宅から、たくさんのホラー映画や殺人のビデオが押収された
というような報道をよく耳にします。
その人の心には、犯罪の種が蒔かれ
知らず知らずのうちにその木が成長していたのかもしれません。
◇こころに神の種を
わたしたちはどんな種を心にまいたらよいのでしょうか。
聖書の言葉を心にまくことは、非常に有益です。
なぜなら、聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれた書物だからです。
しかし、今日はそこからもう少し踏み込んでみましょう。
聖書の言葉の中でも、ズバリ命を宿した「神の種※」を見つけたいのです。
※「神の種」という言葉は,新約聖書ヨハネの手紙一3:9に見られる。
神の種を宿した人は神から生まれたとあり、命を宿していることの根拠。
なぜなら、聖書にはすばらしいことが書かれていますが
中には「誰々が死んだ」「誰々が罪を犯した」という言葉もあるからです。
これも、神の霊の導きの下に書かれた文章の一部ですが
この言葉自体が、わたしたちを新しく生まれ変わらせることはありません。
では命を宿す「神の種」とは何でしょうか。
それは、聖書の言葉の中でも
神ご自身をあらわす言葉と言えるでしょう。
その言葉が、イコール神ご自身、神の本質、神の性質すべてを内蔵している言葉
それこそが「神の種」です。
種の中には、根も茎も、枝も葉も、花も実も
すべての要素が内蔵されているように
神の種にも、神の命、神の性質、すべてが宿っているはずだからです。
神は御自分を現して言われました。
「アニーフー」
「われは主なり」(イザヤ43:13文語訳)
※神の名は出エジプト3:14など複数の箇所で名乗られ、それぞれに神の性質を
あらわしているが、今回は「われは主なり」(アニーフー)を採用している。
神みずからが御自分を現して名乗られた名。
これこそは神ご自身であり、神の命、性質すべてを内包した神の種です。
神の名が、わたしたちを生まれ変わらせる「神の種」であり
どれほど重要な意味をもつかは以下の箇所からわかります。
「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。」(ヨエル3:5)※
※この言葉は、使徒言行録2:21,ローマの信徒への手紙10:13でも引用されている。
旧約の預言者と新約を代表する二人の使徒が口をそろえて語っている。
さらにイエスご自身も語られました。
「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。
わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」(ヨハネ17:26)※
※「イエス」という名は、神がこの地上でおとりになった名。尊ぶべき名であることは
当然であるが、ここでは神のご本質を現す名(御名)とは区別している。
イエスは、御名を伝える目的は彼らの内にいる(宿る)ためであると語っている。
この神の種が、心に蒔かれる時
その人は神の心を自分の心とすることができます。
そして神の国はその人を通して
実現していくのです。
◇結び
「神の種」は、今日も無条件にすべての人に向かってまかれています。
なぜなら、主イエス・キリストが、全人類の罪の身代わりとなって十字架にかかり
死んでくださったことにより、全人類に救いがもたらされたからです。
イエスを受け入れた人、その名を信じる人々には
神の子となる資格が与えられたのです。(ヨハネ1:12参照)
この種をしっかりと受け止める「良い地」に落ちた種は
すくすくと成長し、30倍、60倍、100倍の実を結ぶと聖書は言っています。
大切なことは、心から「神の種」を求め
主の名を呼ぶことです。
そのとき、「良い種を蒔く者は人の子※」(マタイ13:37)とあるように
イエス自らが神の種をあなたの心にまいてくださるのです。
※人の子=イエス
神は約束して言われます。
「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」(出エジプト記20:24)
今日わたしたちも、あかるい未来への種まきとして
すばらしい祝福の約束を信じ、主の御名を呼びましょう。
われは主なり!
2011年8月24日水曜日
2011年8月23日火曜日
ご案内☆9月のバイブル・サンデー
残暑お見舞い申し上げます。
朝晩は涼しくなり、赤とんぼもとびはじめ、
残暑の中にも少しずつ秋を感じるようになりました。
皆さんはいかがお過ごしでしょうか?
さて、9月18日(日)は「人生の四季を生きる」と題したバイブル・サンデーです。
人生の四季をどう生きればよいか、
聖書を通して、ご一緒に学びたいと思います。
季節の変わり目、心の栄養補給をしませんか?
お待ちしております!!
2011年8月7日日曜日
ご案内☆8月のバイブル・サンデー
残暑お見舞い申し上げます。
立秋とは名ばかりの厳しい暑さが続いておりますが、
皆様いかがお過ごしでしょうか。
心地よい秋風が待ち遠しいですね。
さて、今月も21日に、バイブル・サンデーが予定されています。
暑い中ではありますが、皆様のお越しをお待ちしております。
2011年8月4日木曜日
7月24日 チャペル・コンサート
福井教会の夏のチャペル・コンサート、たくさんの方のご来場ありがとうございました。
今回のチャペル・コンサートは「希望」をテーマに進めさせていただきました。
賛美を通して、本当の希望や,平和について何か考えたり、感じたりする一時となったのではないでしょうか・・・。
私たちは本当に小さな存在であっても、世界に希望や喜び、光をもたらす存在、平和の道具にならせていただきたいと思いました。

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福井教会の夏のチャペル・コンサート、たくさんの方のご来場ありがとうございました。
今回のチャペル・コンサートは「希望」をテーマに進めさせていただきました。
賛美を通して、本当の希望や,平和について何か考えたり、感じたりする一時となったのではないでしょうか・・・。
私たちは本当に小さな存在であっても、世界に希望や喜び、光をもたらす存在、平和の道具にならせていただきたいと思いました。
平和の祈り
ああ主よ、わたしを、あなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
争いのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、
闇のあるところに、光をもたらすことができますように。
ああ主よ、わたしに、慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも、理解することを、
愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
わたしたちは、与えるので受け、ゆるすのでゆるされ、
自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。
アーメン
ああ主よ、わたしを、あなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
争いのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、
闇のあるところに、光をもたらすことができますように。
ああ主よ、わたしに、慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも、理解することを、
愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
わたしたちは、与えるので受け、ゆるすのでゆるされ、
自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。
アーメン
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